2007年、ふくらみつづけていた住宅バブルがはじけると、世界経済は深刻な不況に突入した。家主たちはみずからが含み損を抱えて溺れていることに気がついた。企業は含み損の洪水に飲み込まれた。失業率は急上昇した。もっとも劇的だったのは、世界経済の金融構造が崩壊寸前までいったことだ。各国の閣僚たちはきりきり舞いとなって、1930年代の再現を避けるために、協調行動に乗り出した。だがその後すぐに、同じ閣僚たちがつぎつぎと緊縮財政を実行していった。ゆるやかにすすむカタストロフィを支配していたのは相変わらず債権者たちであり、かれらを安心させるために、そうせざるをえなかったのだ。公務員たちは首になった。ならずにすんだ者たちも賃金を大幅にカットされた。学校、大学、病院も、大規模な予算削減に直面した。一方で、食料と石油の価格は危機などおかまいなしに上がりつづけた。失業率も高どまりしたままであり、とりわけ若年層の失業率はひどかった。やがて各国の経済は、政治家たちの賢明な努力にもかかわらず――あるいはまさにそうした努力のゆえに――、数年の間に、一度や二度ならず三度も、景気後退の泥沼にはまることとなった。
こうした状況において、多くのプロレタリアは生きのびるために政府の支援に頼らざるをえなかった。だがそうした支援も危機に瀕しており、フォーマルな賃金関係の外部で、違法取引から軽犯罪まで、インフォーマルな行為が増殖している。
とはいえ、賃金労働者も失業者も危機のはじまりにおいては――危機自体は数十年にわたる経済停滞の帰結にすぎないわけだが――、そのほとんどが危機に順応しようとしていた1。もちろん全員がそうだったわけではない。みずからの生活の条件を守ろうとしたプロレタリアも多く存在した。2008年から10年にかけて数々のデモがあった。道路封鎖や精油所の封鎖があり、暴動があり、略奪もあった。ゼネストは仕事を終日とめた。学生は大学を、公務員は庁舎を占拠した。工場が閉鎖されると、労働者はみずからの仕事場を取りかえすことで応じた。ボスを誘拐したり、工場を燃やしたところもある。
こうしたアクションのなかには、警察による殺人や労災への応答としてはじめられたものもあった。だが、その多くは首切りや緊縮財政をやめさせることを目的として、さらには昂進する不平等や腐敗を是正することを目的としておこなわれていた。とはいえ、『コスモプロレット』が書いているように、「慣習的な階級闘争の諸手段はいずこでも十分な圧力をかけることができず、要求をとおすことはできなかった。動員に多大な努力が費やされたにもかかわらず、抗議行動はあらゆる点で失敗におわった」2。そしてそのあと、2011年に――地震、メルトダウン、津波のあった不吉な年――、だれもがまったく予期しなかった闘争の形態が、地中海の沿岸に押しよせた
広場の運動はチュニジアにはじまり、地中海を越えて中東全体へとひろがり、オキュパイの運動として英語圏に到達した。実際には広場の運動は多様で、ひとつひとつを見ると類似よりも相違が目につくので、このような一般化は無茶だと思われるかもしれない。だが運動の連関を描いたのはわれわれコメンテーターではない。他ならぬ運動自身が、運動の出現形態と、その日々の実践におけるつながりを描いたのだ。広場の運動は、そのはじまりから国際主義的な現象であり、モザイク状に高所得国にも低所得国にもひろがった諸闘争をつなげていった。「最初」に突如としてつながったのは、オークランドとカイロだった。
反グローバリゼーション運動においては、衝突は昂進してもひとつの都市に閉じ込められたままであり、〔グローバルエリートの集う会議とともに〕都市から都市へと跳びうつっていくという特徴をもっていた。広場の運動はこれと異なり――むしろ2003年の反戦運動に似ていた――、占拠はさまざまな都市の中心で、組織化された労働者、スラムの住人、家を失ったばかりの者はもとより、不安定な賃金労働者や、脅える中間層をも惹きつけながら増殖していった。だがそれにもかかわらず、老いた独裁者たちを数人、その居心地のよい部屋から追いだしたことをのぞけば、広場の運動は継続的な勝利をつかむことはできなかった。この新しい形態の闘争は、2008年から10年にかけて起こった抗議行動の波と同様に、危機のマネジメントを変えさせることはできなかったのだ。言うまでもなく、支配的な社会秩序に挑むこともできなかった。
とはいえ、広場の運動が変えたものもある。この運動によって市民――階級を横断する編成――が集まり、危機とその日常生活への影響について話し合うことができた(それは北アフリカでは、まさにこの運動によって可能になったことだった)。以前にはそうした議論は私的な空間でしか交わされなかった。失業、ホームレス、警察の暴力、借金は自己責任であると思わされていて、人びとは問題の集団的な解決を話し合う機会を手にしたことがなかったのだ。この一点においてだけでも、占拠の場で交わされたあらゆる話し合いには意義があった。
占拠が発展していくにつれて、しだいに占拠者の活動そのものが主要な議題となっていった。警察から広場を守るために何をすべきなのか?どうすれば運動を新たな地域に拡げていくことができるのか?こうした議論は占拠の外でもさかんになり、国家にはこの危機を解決する力はないと考える人びとが増えていることを示していた。だが同時に、ではどうすればよいのかという手がかりをもつ者もいなかった。そして占拠はスペクタクルとなった。占拠者たちはみずからの活動の観客となり、この運動の本来の目的を見つけようと待ちつづけたのである。
占拠者たちが直面したもっとも大きな問題は、自分たちが結集した方法こそが、支配秩序に真の脅威を与えられない原因となっていることだった。だれもが占拠に関与していたが、ホームレスをのぞけば、直接の利害関係があるわけではなかった。占拠者たちはそれぞれ現場(地域、学校、職安、職場)を去ることで出会ったのであり、おそらくそのことは力にもなっていた。結果として、占拠者たちは物的な資源を管理することもなければ、広場をのぞいて、交通の要所やどこかの区域を統制することもなかった3。地区や職場の代表として占拠に来たという者は――社会体の別のフラクションから来たという者ももちろん――まれにしかいなかった。占拠者たちがたがいに見せたのは、ほとんどみずからの身体だけであり、その「怒り」の叫びは中央広場に反響したまま、実を結ばないでいる。北アフリカのいくつかの都市をのぞけば、占拠者たちの大多数は、広場から発したみずからの怒りを日常生活へとひろげることができなかった。そこでは広場よりも多くの、そして深刻なリスクが待ち受けていたのである。
こうした文脈において、占拠者たちがえらんだのはash-sha'b yurid isqat an-nizam〔体制は倒れろ〕やque se vayan todos〔みんな出ていけ〕といったネガティブな要求であった。だが政府を打倒し、緊縮財政を転換し、食料品の価格と家賃を下げ、そしてそれがもっとも好ましい条件の下でおこなわれたのだとしても、要求はいったい何を達成したことになるのだろうか?占拠者たちが緊縮財政をやめさせれば、国債の債権者たちは縮みあがり、国家は破産せざるをえなくなるだろう。奈落の底に落ちよう。どんなに機会主義的な政党によっても――アメリカの茶会【ルビ:ティーパーティー】ならありえるかもしれないが――そうした呼びかけがすくい上げられたことはないのだ。
経済の再工業化はもとより、リフレーションを要求することもできないのであれば、残るのはプロレタリア(と他の諸階級)のさまざまなフラクションの間の利害関係だけである。現状の経済を受け入れるしかないのであれば、どのようにして諸フラクションは敵対しあうことなく、――公的なほどこしと民間の雇用という――限られた資源を配分することができるのだろうか?革命しか残されていないと言うのはたやすい。だがそれはどのような革命なのか?
二十世紀においてプロレタリアは、協同的なコモンウェルスとしての社会を再建するという目標をもって、労働者運動の旗の下に団結することができた。だがこのような古い解放の形態は、もはや座標の機能を完全に失っている。かつて工業労働人口は近代世界の建設に従事していた。それは階級関係の再生産を超えて、ある目的をもった仕事として理解されていたはずだ。いまでは戯言にしか聞こえないだろう。数十年にわたって工業労働人口は収縮してきた。石油-自動車-工業の複合体は世界を建設するのではなく、世界を破壊している。無数のプロレタリアが上昇の見込みのないサービス業に雇用されるようになり、それ以来、かれらは「食って」いけるということ以外に、仕事に目的を見いだせなくなっている。今日、多くのプロレタリアは、みずからが優位になるための諸条件を生産しているにすぎない。こうした状況を前提にして、どのようなプログラムを示すことができるだろうか?階級のある部分が、みずからの利益を普遍的な重要性を孕むものとして提示することはできない。ゆえにポジティブなプロジェクトがあるとすれば、手順としては逆で、それは派閥的な利害関係の不協和音をくぐりぬけたところに見いだされなければならないのだろう。
広場の運動はそうした作業をする代わりに、新しいかたちの人民戦線主義をとった。それは危機によって、さらには――企業の救済措置の後におこなわれた――緊縮政策によってネガティブな影響をこうむった、すべての階級とそのフラクションを結集させた。かくして、沈没しつつある中間階級、雇用はまだ保証されているものの脅かされている給与生活者、不安定雇用者、失職したばかりの者、都市部の貧困層など、さまざまな集団から個人が集まり一体となった。かれらが熱気をもった社会の見本を形成しえたのは、危機によって眼前に差し出されたあらゆる選択肢が、かれらのうちのだれにとっても受け入れることのできないものだったからだ。とはいえそれぞれが選択肢を許容できない理由は、かならずしも同じではなかった。北アフリカではさまざまな戦線が結集して政府を倒すことができたわけだが、こうした例のように、分派化しているからこそうまくいくこともあるのだ。
さて、われわれは、広場の運動はある理由から人民戦線の形態をとったと考える。それはこの運動の本質が――あらゆる声明に書かれていたわけではないが――反緊縮闘争だったからである。奇妙なことに、と言うべきだろう。2008年の時点ではだれもが分かっているように見えた。景気後退は1930年代に匹敵する深刻なものであり、おこなわれるべきは緊縮財政ではなくその反対、つまり巨大な財政出動であると。実際、いくつかの低所得国(とりわけ中国、ブラジル、トルコ、インド)では――限定的であることが多く、深刻な景気後退を味わうはめになったこともあったにせよ――財政出動の道がとられた。しかし驚くべきことに、高所得国はその道をとらなかったのだ。グリーン・キャピタリズムがおおいに賞賛されていた国はどこだったのだろうか?グリーン・キャピタリズムはグローバル経済を新たな道のりへと歩ませるはずではなかったのだろうか?この数年は、資本主義をまったく新しいものにつくりかえて、人類の救世主とするチャンスだったはずだ。だがそうはなっていない。高所得国が予算を削減せざるをえなかったことにこそ、危機の深刻さが現れている。高所得国は死のダンスをやめることができないのだ。
以下で展開するように、高所得国は二つの相反する圧力を受けながら踊ってきた。高所得国は、一方ではデフレ脱却のために借入れと支出をおこなわなければならなかった。そして他方では、(数十年にわたる経済成長の停滞に伴い)途方もない額となっている公的債務の肥大化をとめるために、緊縮政策を実行せざるをえなかった。ぐるぐると旋回飛行をつづけたところで危機は解決しなかったが、降下の速度は遅くなった。そして危機は社会全体の危機ではなく、社会のある部分の危機、個人の危機となったのである。
こうして闘争は奇妙な性格をもつこととなった。危機にもかかわらず国家が緊縮政策をとるさまは、国家には危機を転換させる力もあるように、人びとに思わせた。端的に言えば、国家は理性を失っているだけのように見えたのだ。各地の占拠者たちにしたがえば、国家が理性を失ったのは腐敗の結果でしかない。国家が金持ちの利権に支配されてしまっただけのことでしかない。しかし人びとの目に国家の強さのように映っていたものは、実際には国家の弱さにすぎない。緊縮財政は国家の弱さの表れである。数十年にわたる経済成長の停滞と、周期的に到来する危機にたいして、国家は時間稼ぎをつづけることしかできないのだ。いまはそれでよしとしよう。秩序は保たれるのだから。というわけだ。
現在の経済停滞は、あきらかに金融危機からはじまっている4。突如としてモーゲージ債とクレジット・デフォルト・スワップがテレビで延々と流されるトピックとなった。リーマンブラザーズが破綻した。AIGの債務が850億ドルになった。リザーブ・プライマリー・ファンドが「額面割れ」して、いくつかの証券市場がとまった。最後の貸し手である中央銀行が資金を流しつづけたため、市場が完全に凍結することまではなく、大恐慌の再現となることは避けられた。あの「大不況」のおわりから四年が経ち、われわれはいまどこに立っているのだろうか?危機をどのように理解すべきなのだろうか?〈中国の世紀〉行きのハイウェイに乗っていて、一時的に逆行しただけ?近年の展開をみると、そうとも言えないようだ。
二年つづいた大不況から2010年に回復したものの、高所得国の一人あたりGDP成長率は2011年あるいは12年には減速しはじめた5。2012年の成長率はわずか0.7%だった。回復の弱さはすでに歴史的なものであるが――停滞の長さと厳しさにおいて並ぶのは大恐慌しかない――、ますますひどくなりつつある。実際、高所得国全体でみると、2012年の一人あたりGDPは2007年のピークよりも低い。失業率を下げることは(とくにこの間労働生産性が上がりつづけていることを考えると)きわめて困難になっている。失業率はアメリカで10%に達し、ユーロ圏では12%を上回り、現在でもほとんど下がっていない6。不況が直撃した国々ではさらに高く、2013年の半ばにおいても上がりつづけている。キプロスで17.3%、ポルトガルで17.4%、スペインで26.3%、ギリシャで27.6%。同じ国々の若年失業率は天文学的な数字になっており、それぞれ、37.8%、41%、56.1%、62.9%である7。
いわゆる新興市場における近年の経済発展は、さらに不穏な様子をみせている。新興市場はすくなくとも一時は、世界経済全体を引っ張っていくことができると思われていた。いまやどの市場も落ち込みはじめている。トルコとブラジルでは、一人あたりGDP成長率が急落し、2012年にはそれぞれ、0.9%、0%となった。中国とインドという巨大な存在も勢いを失っている。中国では、有史以来もっとも大規模な景気刺激策がとられたにもかかわらず、経済成長率は下落し、一人あたり成長率は2010年の9.9%から、12年には7.3%になった。インドでは下落がさらに激しく、2010年の9.1%から、12年には1.9%になった(インドではこの二十年間においてもっとも低い数値である)。
だが、回復は弱々しく失業率も高どまりしているにもかかわらず、新しい合意が高所得国を支配している。「ケインジアンであるべき局面は過ぎた。政府は支出を削減しなければならない」。
第一幕がおわり、危機がさらに高まるにつれて、真の問題は金融規制の失敗ではなかったことが明らかになりつつある。いまや銀行はもしものことを警戒しすぎて、リスクを過度に避けるようになっている。真の問題は、過剰人口と過剰資本の拡大なのだ8。悲惨は資本主義の生産様式の長期的な傾向であるが、悲惨は債務によって媒介される。過剰資本は1960年代から巨大なものとなり、それから成長の一途をたどってきた。溜まりつづける過剰資本は、国際的には主にドルの過剰として現われている。1960年代の半ばのユーロ・マネー、70年代のオイル・マネー、80年代と90年代のジャパン・マネー、2000年代のチャイナ・マネー。こうしたマネーは(材の購入には使われないために)収益を求めて地球をかけめぐり、金利の急激な低下を招き、連鎖的にバブルを引き起こしていった。前世紀におけるもっとも大きなバブルは、1970年代半ばのラテンアメリカ、80年代半ばの日本、90年代半ばの東アジアで起こったものである。今回の危機に至る前には、1998年から2007年にかけて、アメリカで株式バブルと住宅バブルがあった9。
Figure 1: Surplus capital and surplus population as disintegrating circuits of capital and labour
アメリカで株式市場指数と住宅価格がこれまでになく高くなっているとき、資産をもつ人びとは裕福になっていると感じていた。みずからのもつ資産価値が青天井に上がっていったからだ。資産価値の上昇により、貯蓄率は長期にわたって停滞することとなった。資産バブルが消費を駆動させることで――投資の利回りは下がり、経済成長率は落ち込んだままで、労働者の貧困はますますひどくなっていたものの――、経済はなんとか回っていた。アメリカのバブルが回していたのはアメリカ経済だけではない。2007年においてアメリカは、アメリカをのぞいた世界の輸出の17.8%を飲みこんでいた。これは額にするとアメリカをのぞいた世界の総GDPの7%にあたる。世界経済に多大な刺激を与えていた、と言えば十分だろう。もちろんアメリカの人びとが均等に、債務をもとにした消費をおこなっていたわけではない。この間、プロレタリアはみずからが資本主義の生産過程において不要な存在であるという自覚を強くしてきた。労働需要はずっと低いままであり、労働者の実質賃金はこの四十年上がっていないのだ。結果として、アメリカでは需要構成に劇的な変化が生じた。超富裕層の嗜好の動向ばかりが消費を左右するようになり、その傾向はますます顕著になっている。いまや上位5%の所得者層がアメリカの消費の37%を占め、上位20%の所得者層がアメリカの消費の半分以上、60.5%を占めているのだ10。
だがいまや住宅価格と株価の急落によって、資産効果は逆に作用している11。家主たちはふくれあがった債務をとにかく返済して、資産にたいする負債の比率を下げようと必死になっている。企業はどんなに金利が低くとも投資を控えるようになった。しかし道のりはまだまだ長い。アメリカの債務総額は――国、企業、家主をあわせて――GDPのおよそ350%にあたる。イギリス、日本、スペイン、韓国、フランスではもっと高く、GDPの500%である12。レバレッジ解消ははじまったばかりなのだ。他方で、高所得国の景気の低迷は、アメリカとEUの輸入が停滞し、さらには落ち込むことによって低所得国に波及していった。結果として、政府の支出には二方向からの圧力がかかることになった。
もともと、短期金利はゼロで、長期金利も歴史的な低さを記録していたにもかかわらず、民間借入はほとんどなかった。いわゆる「支出ギャップ」は、民間経済において人びとが借入より貯蓄をつづけることによって大きくなってきた。かりに政府がこのギャップを埋めようとしていなかったら、民間経済はさらに収縮していただろう。財政出動による今日の景気刺激策の目的は、経済成長を再開させることではない。経済成長は景気対策が人びとのポケットをふくらませて、そのカネが浪費されたときにだけ生じるものである。だが家主たちはそのカネを債務の返済にあててしまうのだ。現在の危機において、政府の支出のポイントは――デフレを起こすことなく、資産にたいする負債の比率を小さくする機会を与えるために――時間を買うことにある13。デフレは資産の価値を下げることで負債の比率をさらに大きくし、負債デフレスパイラルを起こしてしまうからだ。
他方で、国際経済が最盛期であることに乗じて、民間のバランス・シートを健全にするための別の方法を実験している政府もある。それは債務を減らすのではなく、資産価値を上げようという方法である。アメリカ連邦準備銀行とイングランド銀行は、他の中央銀行とともに「量的緩和」をおこなってきた。中央銀行は自国の長期国債を購入することで、長期国債の利回りを下落させた。国際市場は利幅が小さくなり、投資家たちはそこから押し出されるようにして、よりリスクの高い資産市場に移っていった。これによって株価は再び上昇しはじめ、実験は一時的には成功をおさめている。期待されていたのは、企業および富裕家主たちの資産負債比率を、株価の上昇によって――つまり債務の返済や損金処理によってではなく、資産価値を再浮上させることで――下げることだった。問題は、量的緩和をやめるとその効果もおわってしまいそうなことである。株式市場は経済の回復によって上向きになったわけではない。悪いニュースがつぎつぎに伝えられれば――なかでも中央銀行が量的緩和をやめるというニュースが最悪だ――、この小さな株式バブルは崩壊するのである。
だがそれだけではない。いまになってはじめて、量的緩和がアメリカとイギリスの外、つまり世界経済にあたえた影響の甚大さが明らかになりつつある。もっとも重大なことは、量的緩和によってさまざまな商品(たとえば食料や燃料)の価格が跳ね上がり、世界の貧困がさらに悪化し、各地で食料暴動を誘発したことである。それらの暴動はそのままアラブの春につながっていった14。同時に、量的緩和はキャリートレードの取引額を桁外れの大きさにした。世界中の投資家たちが、資金を極端に金利の低いアメリカで調達して、「新興市場」に投資したためである。これによって通貨が強くなる低所得国が出現し、以前は強力な輸出マシンであった国々をはげしく弱体化させた。こうした事態に直面した低所得国の政府は(部分的には流入した海外資本に頼りながら)大規模な財政出動プログラムを実行し、その結果、高所得国と比較すればすみやかに「大不況」から立ち直ることに成功した。だが、低所得国も――経済活動の実質的な増大によってではなく――2000年代に富裕国を牽引した建設バブルによって立ち直ったにすぎない。いまや量的緩和がおわる可能性とともに、アメリカの脆弱な景気回復ばかりか、新興市場のバブル駆動の景気回復も危機にさらされている。各国の政府は、墜落しそうなところから立て直した現在の体勢を維持するために、支出をつづけなければならないのだ。
表1:2008年-12年における各国の一人あたりGDP成長率
表2:2007年-13年におけるOECD諸国の【対GDP比】債務残高
ゆえに、今回の危機のはじまりの時点において、債務水準はすでに1929年よりもはるかに高かった。大恐慌の前夜、アメリカの公的債務はGDPの16%の額だった。それが十年後の1939年までに、44%に上がった。ひるがえって、現在の危機の前夜にあたる2007年において、アメリカの公的債務はすでにGDPの62%の額になっていた。それからわずか四年後には、100%にまで達したのだ15。すべての高所得国が同様にして、デフォルトの恐怖を募らせている。
国家の債務はすでに数十年にわたって高い水準にあり、もはやこれ以上の国債の発行には限界がある。政府は可能なかぎり、希少な与信枠を残しておくために、火薬を湿らせないようにしておかなくてはならない。来たるべき金融市場の混乱を乗り越えようとするとき、きっとその与信枠が必要になるのだ。危機の最中におこなわれる緊縮政策は、逆説的な結果を生んできた。なにしろ政府は将来に債務を発行するために、現在の債務の発行を抑制して、債権者たちを信用させなければならないのだ。いくつかの政府(アイルランド、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガル)は、すでに与信枠を使い切ってしまったように見える。
こうした二つの圧力――デフレ脱却のための支出と、デフォルト回避のための支出削減――を調和させることはできない。緊縮政策とは、資本家階級による貧困層への攻撃であるだけではない。緊縮政策は国家の債務の肥大化に根ざすものであり、それは(1980年代前半の低所得国がそうだったように)袋小路にはまりつつある。
ギリシャはEUとIMFから二度の救済措置を受け、その結果として生じた緊縮の嵐のただなかにいる。最初の救済プランは2010年5月に実行され、二回目は2011年7月に実行された。2014年にはほぼ間違いなく三回目の救済プランが実行されるだろう。ギリシャはこれらの救済措置を受けるために、すくなくとも五度にわたる緊縮プログラムをはたさなければならなかった。もっとも厳しかったのは2011年の6月に可決されたパッケージである。公務員は賃金を15%カットされ、2015年までに15万人が解雇されることとなり、定年も上げられた。年金と社会保障の支出は36%削減された。政府が所有していた港、鉱山、空港はもとより、多くの公益事業(電話、水、電気)が部分的に民営化された。所得税と消費税が上がった。2013年7月にもかなりの削減が再びおこなわれ、民間の失業率が高いにもかかわらず、25000人の公務員が首になった。緊縮政策の結果、ギリシャの人びとの収入は2007年から2012年の間に五分の一に減少した。これに伴って、政府の歳入も縮小したわけであり、緊縮政策はギリシャの財政をさらに不健全にしたにすぎない。1980年代の多くの低所得国がそうであったように、ギリシャは構造調整によってこれまでになく外部からの資金調達に依存するようになっている。
ポルトガル、スペイン、イタリアでも、程度は和らぐものの、同様の緊縮政策が実行されてきた。アメリカですら、学校閉鎖、学費値上げ、医療費の値上げ、退職金の撤廃があった。公務員が一斉に解雇され、残った者たちも賃金をカットされた。
中央銀行の協調行動、金融会社への大規模な支援、国債の増額、そして今度は、国債市場を安心させるための緊縮政策。いずれも「大不況」があらたな「大恐慌」となることを防いできた。これらの施策はアメリカとドイツの閣僚たちの手によって、かなり中央集権的に統制されてきたものである。アメリカは世界経済の最後の借り手であり、ドイツは世界経済の最後の貸し手であるからだ。だが、公的債務と民間債務の水準の高さ、停滞がつづく、あるいはずっとマイナスをつけている経済成長、極端に上昇している失業率(とくに若者の失業率)を見れば明らかなように、嵐が過ぎさる気配はない。
われわれは現在の局面を待機経路〔航空機が着陸または前進の許可を待つ間にとる楕円形の周回路〕と考えたい。だがここで注意しなければならないのは、経済は高度を下げつづけているということである。ゆえに、ここにはつかの間しかいられない。いくつかの奇跡が起これば、世界経済は加速し、機首を上げて空に昇っていくこともおそらくできるだろう。だがそこには「重大なダウンサイド・リスク」がある。緊縮政策への依拠は、経済が体勢を立て直すための安定性を危ういものにしている。緊縮政策とは、民間部門の支出が不足しても、政府がそれを埋めなくなることを意味するからだ。そこから再び、デフレの脅威も生じる。デフレの圧力を押し戻す力は、もはや際限のない量的緩和政策しかないのだ。だが、デフレが起こらないとしても、現在の経済的混乱がクラッシュしておわる可能性は他にも十分にありうる。じつは国家の債務不履行は、世界規模で検証してみれば、さほどめずらしいものではない。債務不履行が断続的に起これば、それは危機をグローバルに展開させる主要な役割をはたすことになるだろう。
国家は価値法則の作用になんとかして抗することができるのだろうか?債務を膨大に発行すれば、自国経済の期待成長率を上げることができるのだろうか?できると思う者たちは、これからその主張の正しさを試されることになる。かれらが正しいという可能性を排除することはできない。実際、債務をふくれあがらせることによって――企業、家主、国家はつねに新しい方法で債務を所持してきた――、この数十年の間、景気後退は何度も繰り延べられてきたのだ。このパターンはあと数週間しかもたないのか、あるいは数年はもつのか、だれにも予言することはできない。
とはいえ、もしもたせようとするのであれば、世界経済のどこかで破綻が起きることのないように、世界の金融構造の強度を再テストすべきである。AIGは大きすぎて潰せないのかもしれないが、イタリアは大きすぎて救えないのだ。ユーロ圏は崖っぷちから何度も引き戻されてきた。しかしユーロ圏の危機が解消されたわけではない。潜在的には、より大きな混乱が生じる可能性がある。現在進行中のBRICsの景気低迷は、婉曲的に「ハード・ランディング」と呼ばれるものに移行するかもしれない。インドやブラジルではすでにそうなっているように見える。だが本当に怖ろしいのは、中国の破綻である。中国政府は2007年から大規模な経済刺激策をおこなってきたが、建設業と製造業の過剰生産をひどくしただけであった。銀行は多額の不良債権を巨大な「影の銀行」部門に隠している。さらには住宅価格が急激に上昇しており、その規模はアメリカで先頃はじけた住宅バブルより大きい。中国政府は「今回は違う」と安心させようとしているが、アメリカ政府も2000年代の半ばにはまったく同じことを言っていたのだ。
現在、資本主義の生産様式は深刻な危機に陥っている。とはいえ、この生産様式の危機を、資本が労働との闘争において劣勢にあることと取り違える傾向には抗さなければならない。むしろ、危機は資本の手を強くしているのだ。危機においては、労働需要が下落し、同時に大量解雇が生じるため、労働供給が上昇する。これだけでも交渉する労働者の立場は弱くなる。だがそれだけではない。景気の下降局面において資本が損失をこうむるのはたしかだが、その結果として、個々の資本家がみずからの存在を脅かされるということはほとんどない。「労働者」の方が職を失い、それによってすべてを失う恐怖をいだかされるのである。危機は労働者としての労働者の地位を弱くするのだ。
ゆえに、危機の最中においても資本家は――正確に言えば多くの労働者の視点から――利潤率の回復が何よりも優先されなければならないと主張することができる。労働者は階級関係という条件を受け入れるかぎり、みずからの生活が(資本家の生活よりもずっと)資本主義システムの健全性に依拠していることを知らされつづけることになる。雇用を創出できるのは利潤率の回復だけであり、階級社会そのものへの大規模な襲撃がないところでは、個々のプロレタリアは仕事を探すか、仕事をつづけるかしなければならない。したがって危機のはじまりにおいて、多くの労働者たちが緊縮政策を受け入れるという反応を見せたことは驚くにはあたらない。労働者は以前よりもずっと脆弱なので、資本家やその代理人たちはみずからの利益を押し通していけるのだ。資本家たちは資本主義システムが健全さを取り戻すために必要なものを、それがそのまま自分たちの儲けとなるように定めているのである。
だからこそ、景気後退の最中の緊縮財政は、社会的支出の一時的な削減にはとどまらない。社会的支出はただ削減されるだけでなく、骨抜きにされるか、あるいは廃止されるのだ。多くの国で、危機は長く守られてきた権利や資格――団結権も含まれる――を破壊する梃子として用いられてきた。そしてあらゆるところで、危機は権力をさらに中央集権化させ、それをもっとも強力な国家(アメリカ、ドイツ)に仕えるテクノクラートたちが握るための言い訳として使われてきた。こうした諸々の操作は、ただ景気後退にたいする周期的な調整としておこなわれているわけではない。できるかぎりもっとも直接的な方法、つまり賃金の抑制によって、利潤を回復させようとしているのだ。ケインジアンは、政府は景気後退時においても理性的にふるまうことによって、資本に好機を活用させないよう思いとどまらせることができると考えるわけだが、それは空論にすぎない。
逆説的に、だがまさにこうした理由から、危機には――平常時の階級闘争の継続ではなく――「危機的活動」が現れる16。自己組織化された闘争、すなわち巨大なデモやゼネスト、暴動や略奪、職場占拠や庁舎占拠が、頻繁に勃発する。危機のなかで労働者たちは、資本のゲームのルールに従いつづけるなら、自分たちはただ失いつづけるだけであることに気がついていく。だからこそ労働者たちは続々と、資本のルールに従うのをやめて、労使関係の諸条件に異議申し立てをおこなう闘争に(必ずしも労使という存在そのものを問題にしているわけではないが)加わりはじめているのである。
そこで次の問いが浮上してくる。プロレタリアが参加する、今日の自然発生的な闘争の特徴は何だろうか?われわれは『エンドノーツ #2』において、資本の矛盾を体現するものとして、過剰人口の出現と拡大に注目した。われわれはこのことでいくつかのグループから批判を受けてきた。所詮、過剰人口は直接には蓄積に寄与していないではないか。つまり過剰人口には、労働をやめることでシステムをとめるという、伝統的な生産労働者の力が備わっていないではないか。そのうえ、過剰人口は周縁化され、収監され、ゲットーに住まわされるだろう。買収されることもあるだろう。暴動で燃え尽きてしまうこともあるだろう。そもそも過剰人口が階級闘争において、大事な役割をはたしたことなどあったのか?
2010年の暮れ、過剰人口はこうした問いにみずから答えをだした。12月7日、モハメド・ブアジジがシディ・ブージドの警察署の外で自らに火を放つ。その二日後、同じ町でフセイン・ナギ・フェルヒが送電塔にのぼり、「悲惨を許さない、失業を許さない」と叫んで感電死する。それから数日のうちに、ほぼすべての都市に暴動がひろがり、数週間のうちに、大統領が亡命した。さらにその翌月には、焼身行為が、発光信号のように北アフリカの各地のスラムを照らしていく。アルジェリア、モロッコ、モーリタニア、そしてエジプト。
エジプト人のパン職人アブドゥ・アブデル・モネイムは、2011年1月17日、小麦の助成配給を拒絶されると、みずからに火を放った。伝統的な庇護関係は崩壊しつつあった17。とはいえ、それはエジプトの貧民たちに圧しかかる腐敗の片面にすぎない。その裏側には、この事件の前年に、でハーレド・サイードが留置所で惨殺されたことが示すように、警察による弾圧が苛烈になっていたことがある。こうした文脈のなかで、エジプトの若い活動家たちは、チュニジアでベン・アリが倒されたことを手がかりとして、ムバラクと対峙することを決めたのである。決定的に重要であったのは、かれらが1月25日(伝統的には警察を称える日)にデモをカイロでもっとも貧困な地区からはじめ、要求に――すでに公表されていた「自由」や「社会正義」に加えて――「パン」を掲げたことであった。これに応答して、地区の人びとが路上に溢れだしていったのである。チュニジアの前例に励まされた、この新しい、混然とした闘争は――それまで別々に闘争を展開していたさまざまな階級フラクションをまとめ上げながら――(2008年マルハラで起こったパン暴動とストライキの失敗とは異なり)瞬く間にすべての主要都市に拡がっていった。みずからに火を放つことがこの闘争の最初の契機であったとすれば、それにつづいた反政府闘争は、その絶頂であった。近年の闘争の波には戦術的な一貫性がある。(1)大規模な暴動。広く拡散するものの、区画は絞られることが多い。(2)その区画を占拠し、議論と意思表示(と警察との衝突)の中心にする。(3)山猫デモ、近隣住民との集会、連帯ストライキ、道路封鎖によって、中心から周囲の地域にひろがろうとする。
もちろんスラムの住人たちだけが、この新しい闘争の波を構成していたわけではない。というより、かれらは主要な構成者でもなかった。広場には他にだれがいたのか?BBCの記者であるポール・メーソンは、この運動のほとんどの現場に足を運び、2011年の広場の運動では三つの階級フラクションが主要な役割をはたしていたと明らかにしている。未来のない大卒、アンダークラスの若者、組織化された労働者18。メーソンによれば、舞台の中央にいたのは、このリストの最初に名前が載っている者たちだった。すなわち、借金を抱えたグラフィック・デザイナー、低収入の事務補助員、不払いのインターン。北アフリカでは、行政職に就くための長い順番待ち名簿に名前を連ねる大卒。とはいえ、2011年を振りかえると明らかに、不満を抱いた大卒たちの闘争が爆発するのは、貧困層が入ってきて闘争を圧倒した時なのである。すでに見たように、エジプトで一月の抗議行動が飛躍したのは若い活動家たちがデモをスラムからはじめたからであった。イングランドでも同じである。2010年の学生運動の決定的な転換点は、ムシャクシャしている若者たちが入ってきて、教育継続手当の打ち切りに抗議する力となった時だった19。
さて、ここで確認しておかなければならないのは、より一般的な傾向である。2011年の数々の抗議行動には、一般化するならば、中心となる要求を曖昧にしておくという傾向があった。だが、要求を広くあてはまるものにしようという圧力があったにもかかわらず、階級を統一することはできなかった。煎じつめれば、カイロのスラムの住人たちが溢れるなかで、自由を要求することにはどのような意味があるのだろうか?独裁政権のエジプトであれ、リベラルなエジプトであれ、かれらが――普通の労働者や消費者として――経済に組み込まれることはありえないのだ。同様に、郊外の公営団地に住む若者にとって、学費の値上げに反対することは何を意味しているのだろうか?大学生たちは経済への入口を求めているわけだが、郊外の若者たちは、経済そのものから排除されているように見える。だからこそ学生と貧困層の若者の同盟はむずかしかったのだ。とはいえ、ここではっきりさせておかなければならないのは、こうした緊張関係は、60年代における中流階級の若者と労働者階級の若者の分断とは異なっているということである。
1968年から半世紀の間に、高等教育の意味は完全に変わった。富裕国では大学は大衆化し、エリートの子どもたちだけでなく、その大部分を労働者階級の子どもたちが占めるようになった。学生たちは基本的に働きながら大学に通うにもかかわらず、学位のためにかなりの借金を背負わされるようになっている。こうした意味において、いわゆる新自由主義の時代とは、悲惨がグローバル化しただけではなく、希望もグローバル化した時代なのだ。そこで教育は主要な役割をはたしている。大学教育へのアクセスが広がることによって、アメリカン・ドリーム――個人の努力による自由――が普遍化した。「学位を取れ」が、ギゾーの「金持ちになりたまえ」に取って代わったのである。
この忠告を心にとめて、あらゆる家族が、自分たちの子どもをすくなくとも一人は学校に行かせようと努力している(モハメド・ブアジジも妹が学位を取るためにカネをためていた)。こうした文脈において、「学生人口が巨大化することは、学生人口が以前よりもずっと多くの人口に不安を伝達する装置となることを意味する。学生人口は先進国においても、グローバル・サウスにおいても膨張している。2000年以降、高等教育を受ける割合は、世界全体で19%から26%に向上した。欧州と北米では驚くべきことに、70%が中等後教育を修めている」20。つまり1990年代と2000年代は、階級が敗北した時代であっただけでなく、階級が妥協した時代でもあったのだ。いまやその妥協は危機によって揺るがされ、崩れつつある。だれかがカネを払わなければならないとき、子どもたちから搾りとるというのはじつに合理的な選択である。現実に働いている大人から職を奪うより、キーをたたいて子どもの未来を消去する方が簡単だからだ。エジプトでは今日、大卒の失業率は小卒の失業率の十倍になっている。危機は世代間の衝突としてその姿を現しているのだ21。
メーソンにとって、抗議運動を弱体化させたものは、二つの若年フラクションの闘争と、組織化された労働者の闘争との「総合の不在」に他ならない。総合の不在ゆえに、オックスフォード通りで催涙弾を浴びた「ブラック・ブロック」と、ハイド・パークに集結したイギリス労働組合のデモは乖離したまま、イギリス史上もっとも巨大な(そしてもっとも効果のない)労働組合のデモが行われてしまったのだ22。こうした事例として、われわれはアメリカ西海岸の国際港湾倉庫労働組合とオキュパイとの緊迫した関係を挙げることができるだろう。まず11月2日にオキュパイ・オークランドへの弾圧に抗議する港湾封鎖がおこなわれ、そのあと12月12日にロングビューの組合を守るための港湾封鎖がおこなわれたのだが、この間、どちらの陣営も取り込まれることを怖れて、緊張が高まった。同様のことはギリシャでもあった。部分的にはシンタグマ広場の占拠者たちとその他の社会運動に呼応して、ギリシャの組合が一日間のゼネストを何度か宣言した。しかしかなりの動員に成功したにもかかわらず、ストライキはわずかなインパクトしか与えることができず、そのインパクトも時間が経つにつれて先細りしていった。そのため組合はゼネストの回数を増やし、時間も普段の24時間から48時間に延ばした。だがそれでもストライキは同日におこなわれた大規模なデモや暴動の補助手段のままであり、組合役員たちは傍観者になりさがっていたのである23。
労働者とその他の抗議行動との緊張関係が克服されたのは、エジプトだけである――ただそれも一時的なものにすぎなかったのではあるが。ムバラク体制の最期の日々において、労働者たちは腐敗した国営の組合から離脱し、つぎつぎと自律的な組織をつくりはじめた。メーソンはこの感染のプロセスを、インタビューしたカイロの精神科医のフレーズを拾って次のように記述している。「かれが目にしたのは『見えない壁の崩壊』であった」24。この精神科医の言う壁とは、さまざまな労働者フラクションの間の壁である。かれの病院では、医師、看護師、清掃作業員たちがたがいに対等に話しはじめ、ともに要求を作成することで、その壁は崩壊した。メーソンの中心的な主張は、エジプト以外の場所で壁が倒れなかったのは、それぞれの組織形態が一致しなかったことに原因があるというものである。メーソンによれば、未来のない大学生と郊外のアンダークラスの若者たちがネットワークを形成する一方で、労働者たちは階層的な組織化をやめなかったのだ。とはいえ、そこには闘争の形態だけでなく、闘争の内容に関わる、もっと深刻な限界が立ちはだかっていた。広場の運動に賭けられたそれぞれの利害関係は、現実的に一致していなかったのである。
抗議者たちのなかには、危機を安定した雇用からの排除として経験していた者たち――学生、若いプレカリアート、人種的マイノリティ等々――がいた。だがすでに安定した雇用に包摂されていた者たちは、危機をみずからの雇用部門への脅威として経験したのだ。端的に言えば、「若者」たちがシステムから見捨てられ、さらにシステムから締め出される一方で、組織化された労働者たちは、かなり脆弱になっていると分かっているものを、以前の状態のままに維持しようとしていた。かれらは以前の状態を、緊縮財政国家の猛攻撃から守るだけではなく、自分たちの雇用部門に割って入ってこようとする、学生や貧乏人の大群からも守らねばならなかったのだ。そのことが明らかになったのは、抗議行動の後、以前からの継続的な流れにおいて、「若者」のイメージがそのまま「移民」に刷新されたとき、つまり働けてしかるべき市民から職を奪っている存在に刷新されたときである。われわれの関心事である、闘争の内容をめぐる問いはここにある。さて、2011年の抗議者たちは何のために闘っていたのだろうか?
カイロとチュニジア、イスタンブールとリオ、マドリッドとアテネ、ニューヨークとテルアビブ――さまざまな都市の占拠空間に掲げられたさまざまな要求は、壮大な不協和音を奏でていた。だがそのなかでも際立って響いていたものをひとつ挙げるなら、「『縁故資本主義』をおわらせよう」である。占拠者たちの合言葉は「腐敗」であり、かれらは政治からカネを切り離すことを求めていた。どの広場にも、不正をはたらく経営者と政治家が経済を破壊する様子を描いた、嫌悪にみちた立て看板があった。かれらは市場自由化の名の下に手を取りあって利権をえていた。おそらくここから、後になって出てきたいくつかの要求を理解することができるだろう。すなわち、「民主主義」や「平等」の要求は、正確には、ある個人が他の人びとよりも明らかにずっと大きな存在として数えられる世界において、だれもが一人として数えられることの要求であったのだ。
新自由主義は国家を市場社会に合わせることで、不平等を昂進させていく。新自由主義改革とは腐敗を見えづらいものにしながら、腐敗を社会の上流階層に集中させていくプロセスであり、おそらくそれがもっとも明らかにされたのが、政府基金(と短期資金のフロー)がインフラ投資に向けられていた、地中海の北岸と東岸であった。スペイン、ギリシャ、トルコの経済は1980年代後半から2008年の破綻まで、そのほとんどを大規模な建設景気に頼ることで破産をまぬがれていた。建設はその本質からして、一時的にしか景気を刺激することができない。道路網の構築のためには多くの人びとが雇用されるものの、一度造られてしまえば、維持や保全のために必要とされる人員はわずかであるからだ。ゆえに郊外の開発プロジェクトは、一時的にしか減益を補うことができない。建設景気は過剰資本を建造環境の拡大に固定させて、危機を先延ばしにしているにすぎないのである。
この成長マシンの燃料がきれると、ときに印象的ではあるものの、無用な廃墟が残されることがある。今日の腐敗は、たとえばスペインの僻地にある人気のない空港として、アテネの港にそびえたつ半分だけ建てられた高層ビルとして、イスタンブールの貧困地区につくられるショッピング・モールの計画として現われるのだ。こうしたプロジェクトは、インサイダー取引があって、政府機関がバカげた投資に注ぎこんでいるから腐敗なのではない。じつのところ、取引は遡行的にしか腐敗として現われない。つまり、観光客が来なくなったときに、住宅市場が崩壊したときに、消費支出が落ち込んだときに、腐敗として現われるのである。このとき、インサイダー取引はもはや、比較的害のない、経済成長の副産物ではない。以前は古い庇護の慣習のように見ることができたが、いまでは賭けられる金額が桁外れになっており(危機を回避するために政府がはるかに多額の貸出をできるため)、同時に、利益を享受できるサークルはずっと小さくなっている25。
イギリスやアメリカでもまた、腐敗はUKアンカット運動やオキュパイ・ウォール・ストリートの共通のテーマだった26。とはいえ、どちらの国においても、「腐敗をなくせ」という要求がいかがわしい建設プロジェクトや政治的なリベートを問題にしていたわけではない。要求はリーマンブラザーズやロイヤルバンク・オブ・スコットランドが破産したあとに編成された、巨額の企業救済措置にたいして定式化されたものである。だが、ここでも他の地域と同じルールが働いている。つまり、救済措置が「腐敗」であるのは、措置が編成された環境が疑わしいからではない。措置が経済成長の回復(すなわち雇用の創出等々)と何の関係もないように見えることが問題だったのだ。
広場の占拠者たちは、このように異なる現われ方をする腐敗に反対して、二つのいささか相違する理念を押しだしていったように思われる。
二つ目の要求はしばしば「社会正義」とよばれる感覚から出てきたものであり、そこには良心的なケインズ主義の経済学者が抱くような、人民への救済措置が経済を健全化するという希望も込められている。この要求の背景には、過去数十年にわたって人口の大部分が経済成長からとり残されてきたという、徐々にはっきりとしてきた真実がある。そしてかれらを再び経済成長に連れ戻すことのできるプランは存在しないのだ。あらゆる低所得国で――恩顧主義国家のもっとも重要な基盤である――貧困層にたいする国家の直接的な庇護が失われつつある。その一方で、民営化の分け前はわずかなエリート層にしか与えられない。これまで貧困層はナショナリストのプロジェクトから、ちょっとした利益を享受することができた。だがその限定的なパートナーシップも解体しつつあるのだ。
次のことを明記しておくべきだろう。この解体は、見かけは世代間の問題のように現れる。そしてそのことはとくに人口増加率の高い発展途上国において重要な意味をもつ。政治家たちは、大衆叛乱に至るような大衆の怒りを誘わないかぎり、ポピュリスト的な政策が完全に失墜することはないと知っている。ゆえに政府は部門別に政策を進めていくのだ。政府はまず次世代の、かれらがまだ手にしていない特権を奪うところからはじめる。エジプトの都市部ではこのプロセスがはっきりと進行中であり、現在、労働人口のおよそ10%を占める(食品加工、繊維産業、輸送、セメント、建設、鉄鋼を含む)フォーマル部門が縮小している。若者たちは「良い」仕事から締め出されていると思っているが、かれらは締め出されていると言うより、いまや労働力の三分の二以上を吸収する、非農業のインフォーマル部門に閉じ込められているのである。
とはいえ、政府はただ後退しただけではない。国家は貧困層との世襲的な取引を維持できなくなると、施しにかえて警察による弾圧をあたえた。国家による庇護のラインは引き締められ、書き直された。警察と軍隊がより多くの庇護にアクセスできるようになり、利益をえる一方で、他の多くの諸部門が庇護へのアクセスを失っている。警察と軍隊はあるフラクションの者たち――警察か軍隊に入れなければ新しい庇護システムの外側にいたはずの者たち――を雇用するようになった。だが、かれらは同じフラクションの他の者たちを抑えるために雇われるにすぎない。ゆえに、ブアジジとモネイムはシンボルとして強い影響力をもったのである。ある身体が燃えて、警察の弾圧を知らせる。また別の身体が燃えて、国家によるこれまでの庇護が崩壊したことを伝える。二つの出来事はつながっていて、絡み合っているのだ27。
こうした理由から、警察はもっとも勢力があり、もっとも嫌われる腐敗のシンボルとなった。警察力の拡大と軍事化は、時代の最悪の象徴であるように思われる。どこの政府も学校や病院の予算を削減する一方で、警察への給与や監獄の建設などに巨額のカネを注ぎ込んでいる。政府はもはや表面的にすら、国民をみずからの目的として考えていない。それどころかいまや国民はセキュリティの脅威であって、政府は国民を封じ込めるためにカネを費やしているのである。
とりわけプロレタリアートの周縁化された諸部門にとって、こうした封じ込めは日々の現実である。一般に警察は給料が低く、しばしば貧困層から賄賂やキックバックを搾りとることで収入をおぎなっている。警察にとって貧困層との日々のやりとりは、最後に残された古い腐敗の恩恵なのだ。同時に、警察は人口のもっとも弱い部門を圧迫することによって、新しい腐敗を強化してもいる。財産を飛躍的に増やした新しい世襲エリートへの抗議行動が起こると、警察はかならず鎮圧に現れるのである。
警察は貧困層からただカネを抜くだけでなく、叩きのめそうと狙っている。警察力の肥大化に伴って、各地で恣意的な弾圧や警察による殺人が増加し、それはしばしば暴動の引き金となってきた。またひとつ身体が地面に倒れるたびに、人口のある部門は大きな、そしてはっきりとしたメッセージを受け取る。「お前らはもうどうでもいい。消えろ」。同じメッセージはより明確なかたちで、緊縮政策に反対する抗議行動においても示される。警察は衝突の前線にいて、かならず人びとを抑制し、緊縮政策の不正義について不満を爆発させないようにするのである。
このように、腐敗への反対には、抗議者たちがじかに経験している現実の根拠がある。腐敗との闘いには、二つの意味で締め出しを味わった、苦い経験が記されている。人びとは新富裕層の派手な消費に示されるような、新しいグローバル化された経済の成長を楽しむこともできず、ひるがえって昔ながらの――(古い体制であろうと、労働者主義の形式をとっていようと)承認のシステムでもあった――庇護システムからも締め出されていることに気がついている。ようするに腐敗への不満は、極端な不平等の昂進、つまりたくさんのいかがわしい契約によって、富が上層に再分配されている不公平を示しているだけではない。それはまた承認の欠如を批難しているのであり、承認を失う恐怖を表している。腐敗の蔓延は、基礎的なレベルにおいて、ネーションのメンバーとして実際には数えられない者(あるいは数えられない危険)が生みだされることを意味しているのだ。国民の共同体に代わるものは、変革の調停者である警察しかない。この状況を修復し、共同体を回復させるものは何だろうか?占拠はそれ自体、この問いに答えようとする試みだったのである。
2011年の抗議者たちは、公共の広場にみずからの身体と苦しみをさらすことによって、過酷な社会的危機が人びとに及ぼしている影響を明らかにした。とはいえ、かれらは概念としての空間にいつづけたわけではない。占拠者たちは自然発生的に直接民主主義と相互扶助をえらび、もうひとつの社会性の形態を可能にする、さまざまな力を示そうとした。発言の権利、発言に耳を傾けられる権利において、人は平等であることができると。
占拠がつづくなかで、水平的な組織化のモデルは、それ自体が目的となる傾向にあった。国家権力の冷酷さと(あるいは)破綻に直面した占拠者たちは、内側を振りかえり、自分たちの行動のなかに――もはやヒエラルキーもリーダーシップも地位も必要としない――人びとの共同体を見いだした。そのメンバーとして数えられるためには、広場にいるだけでよかった。別の組織への加入も必要なければ、忠誠も必要なかった。むしろ別の組織への帰属は問題視されることの方が多かった。このようにして、金権政治家たちを庁舎から追い払うことを目的としていた反政府の抗議行動は、また別の意味で、反政府の抗議行動となった。つまり反政治になったのである。もちろん、こうした変容はたんに進歩として見なされるべきではない。抗議者たちの志向は外側から内側へ、そしてふたたび外側へと揺れうごいているからだ。
このような特徴をもった運動は、先例が見当たらないとされてきた。運動の水平主義であれば2001年のアルゼンチンにあった。また広場の運動は反グローバリゼーション運動(とそれ以前の反核運動)の諸形式――とりわけ合意形成にもとづく決定作成――を再現してもいた。だがこの運動を特別なものにしたのは、広場の占拠がつづいた期間の長さである。占拠が長くつづいたゆえに、占拠者たちはみずからの再生産を目的とせざるをえなかった28。かれらはともに生活する方法を編みださなければならなかった。広場にとどまりつづけられることだけが――占拠がつづくかぎりインパクトを与えられることだけが――かれらの強さであり、立ち退きを拒むことが、かれらの力だったのだ。占拠者たちは、自分たちが採用している統治の諸形式は、この破綻しきった社会で売られている統治の諸形式よりすぐれていると主張した。
おそらく、こうした特徴をもった運動の先駆けとしてもっとも妥当なものは、以前におこなわれた広場の占拠に、それも2011年の抗議者たちが直接には言及してこなかったように思われるところに見いだすことができるだろう。天安門広場である。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、単純化しながらも、2011年の抗議運動を予知するように天安門の魂のようなものをとらえていた。アガンベンは『到来する共同体』で「北京から届いたばかりのニュース」について語り、天安門の本当の目的はみずからを構成することにあったにもかかわらず、その事実は後から出てきた自由と民主主義の要求によって隠されしまっていると整理している29。天安門で一体となった共同体は、「なんらの所属の条件によって」も、「条件のたんなる不在によっても」媒介されることなく、「所属それ自体によって」媒介されていた30。デモ参加者たちの目的は、「表象しうる所属の条件をもつことなく共に所属する」ところで、「アイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること」にあったと31。
アガンベンの主張によれば、天安門の占拠者たちはあらゆるアイデンティティの市場からみずからを切り離すことによって、「なんであれかまわない単独者」になった32。なんであれかまわない単独者たちは、なんらかの属性を偶然にもつことはあっても、みずからそのものでありつづける。アガンベンによれば、占拠者たちはこのようにみずからを示すことによって、必然的に国家の表象のロジックを座礁させた。国家は占拠者たちをなんらかのアイデンティティのうちにとどめようとしていた。そうすればなんらかの存在として、包摂することも排除することもできるからだ。ゆえにアガンベンはこう結論づける。「これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現すだろう」33。
アガンベンの言う意味における、所属それ自体によって媒介される共同体とは、次のようなものである。(1)共同体はそこにいるすべての者たちによって構成される。偶然そこにいたという以外に、所属の条件はない。(2)共同体は以前から存在する諸アイデンティティを連立政治のように媒介するのではなく、ゼロから生まれる。(3)共同体は国家による承認を求めない。共同体はその限界において、みずからを国家のオルタナティブとして――真のデモクラシーとして、あるいはデモクラシーの克服ですらあるものとして――示している。(4)このような共同体の目ざすところは、その外にいるあらゆる人びとを勇気づけること、そして人びとが社会におけるみずからの地位を捨てて、「なんであれかまわない単独者」として共同体に参加することである。こうした説明は、2011年の占拠者たちの自己描写とも一致する。かれらもまた、その称し方はここまで哲学的ではなかったにせよ、なんであれかまわない単独者になろうとしていたのだ。
だが次の点ははっきりさせておくべきだろう。アガンベンにとって、天安門はなんであれかまわない単独者たちによってすでに構成されたものであった。実際には広場を埋めつくした学生と労働者たちの間には区分があり、それぞれが座るところまで決まっていたにもかかわらず、その事実はアガンベンの叙述からは完全にぬけ落ちている。それでも、運動の記述としては失敗しているものの、アガンベンの説明は運動の規範的志向性というべきものをとらえている。天安門において――デル・ソル広場やシンタグマ広場、ズコッティ公園と同様に――、参加者たちは自分たちが社会のさまざまな規定を乗り越えたと信じていたように見える。2011年の抗議者たちは、はっきりとそのように感じていた。まさにその確信を根拠として、縁故資本主義と闘おうと提案していたのだ。
とはいえ、抗議者たちが社会にしっかりとつなぎとめられていたことも事実である。かれらの広場もまた、社会の一部分であったのだ。それは「中産階級」の参加者たちと貧困層の参加者たちとの分断を見れば明らかだったが、それだけではない。人びとは以前からのさまざまな類縁性を抱えたまま、広場の隅のあちこちでかたまる傾向にあった。円をつくるようにテントを立て、入口の覆いは上げられているものの、入口は内側に向けられていた。さらに分断は見えづらいかたちで、ジェンダーの線にそって生じた。占拠のなかで、女性の参加者たちは男たちにレイプされる脅威にさらされていた。女性たちはみずからを守るための組織化をしなければならかった34。こうしたさまざまな分断は、合意形成による決定作成と共同炊事から統一が構成されても、それだけでは解消されなかった。
問題はここにある。2011年の運動が、みずからをすでに統一されたもの、不愉快な社会の諸規定をすでに越えたものとして示していたという事実は、内部の分断が基本的に否認されていたことを意味している。だからこそ分断は運動への脅威としてしか現れなかったのだ。内部の分断がたんに隠されていたということではない。本当は、分断は広場の内部で、なにか委員会を立ち上げたり、新しい行動のルールを広めることによってでしか解消されえなかったはずなのだ35。
運動がこのようにしか内と向き合えなかったのは、外を見ることができなかったからである。広場を出て社会に入っていくことができなければ――そして社会を解体しはじめることなしには――、プロレタリアの分断の土台である階級関係を崩すことは絶対にできない。占拠者たちは圧力鍋のなかに入れられているかのように、広場に閉じ込められていた。これまでたがいに距離をとっていた階級フラクションは、時にはともに生活せざるをえないこともあり、いやでもたがいを知るようになった。こうした緊張関係のなかで、運動はわれわれが構成の問題と呼ぶものと対峙することとなったのである。
構成の問題とは、闘争の過程において、プロレタリアのフラクションを構成し、連動させ、統一する問題のことをさしている。過去のように――すくなくとも典型的な理想化された過去の表象のように――、階級フラクションをすでに構成されたものとして、つまりその統一が「本質的に」所与のものであるかのように(職工の統一、大衆の統一、「社会的」労働者の統一といったように)考えることはできない。今日そのような統一は存在しない。また生産の技術的構成は変容の一途をたどっており、実現を期待することもできない。こうした意味において、あらかじめ定められた革命主体はいない。あらゆる労働者が共有する総合的な意識としての、階級意識「それ自体」もない。というより、そうした意識は資本の意識でしかない。労働者を分離することによって労働者を統一するものの意識でしかないのだ。
このように今日、階級の構成は階級をまとめる柱としてではなく、未解決の問題として現われている。階級は分断されていても資本に抗することができるのだろうか?広場の運動はこの問題を――しばらくの間――保留することができた。占拠の意義は、することのできない階級闘争と微温的なポピュリズムとの間に、空間をつくりだしたことにあった。そこで抗議者たちは分断されていても、一時的に統一することができたのだ。そのことは運動の強度を飛躍的に高めた。だが同時にそれは、抗議者たちが構成の問題に直面したとき、問題を解決することはできないと気づくことを意味していた。
占拠者たちは構成の問題を避けることで一体となった。ゆえにかれらは自分たちの統一を可能なかぎり抽象的に名づけることとなった。だからこそかれらは「怒れる市民」であり、「99パーセント」であったのだ。かれらは労働者階級である、あるいはプロレタリアであると言っても、流行にはなじまなかっただろう。だが、違いはなかったはずだ。名ざしている統一が具体的な存在をもたないのであれば、あらゆる一般概念は空想にすぎない。ゆえに必然的に、占拠者たちの統一は弱い統一だった。それはキャンプの内部で再び分断が現れ――階級、ジェンダー、民族、年齢といった、あらゆる社会的諸関係のなかにすでに存在していた分断が現れ――、封じ込めておけなくなると、ただちに瓦解した36。構成の問題に逆の視点からアプローチすることは可能だろうか?つまり、プロレタリアの分断から出発して、プロレタリアの分断に立脚しながら、統一の問いを提示することは可能だろうか?
おそらくプロレタリアは統一を後まわしにして、分断をそれ自体として明らかにすることによってでしか、――資本のための分離したままの統一ではない――真の統一についての問いを示すことはできないはずだ。本当に団結しようとするならば、プロレタリアはこの社会を越えた存在にならなければならない。それも想像ではなく、それぞれがたがいに、物質的に関係することで、階級関係の諸条件の外に出なければならないのだ。
過去にくらべて、なぜ今日プロレタリアは絶望的に分断されてしまっているのだろうか?1970年代以降、過剰人口は着実に拡大してきた。過剰人口の成長は本質的に階級統合を解体し、断片化させていく。労働需要が低ければ、ひとつの求人にたくさんの応募が集まる。するとだれが「良い」仕事につくのかが決められる際に、経営者の偏見(たとえばある「人種」は怠け者であるといったもの)が実際の影響力をもつことになる。結果として、いくつかの階級フラクションが労働市場の底に溜められていく。過剰人口が大きくなるということは、階級のなかでも極度に搾取される層が形成され、切り離される諸条件がつくりだされることを意味している。マルクスはこの層を停滞的過剰人口と呼んだ。こうした分離が生じることによって、特権的な労働者たちがもつ偏見も強くなっていく。かれらは(ある水準で)、みずからが経営者の偏見によって「良い」仕事を手に入れられたことを理解するからだ。同時に、「良い」仕事から排除された者たちも、非階級的なアイデンティティを強くもつようになっていく。みずからが排除される根拠を形成しているのは、非階級的なアイデンティティに他ならないからだ。
とはいえ、こうした新しい分断はまさに混然としたものであるゆえに、分断そのものが弱くなっているようにも見える。おそらくわれわれはこう言うことができるだろう。資本蓄積の一般法則の進展により、労働市場のあらゆる層において、確固としたアイデンティティ形成が妨げられる傾向にあると。現在、ますます多くの人びとが過剰人口に転落しつつある。潜在的にはだれもが過剰人口になりうる。安定/不安定という区別が、労働者階級の他のあらゆる区別を統べるものになりつつある。そしてこのことによって、二つの意味で、あらゆるアイデンティティはまったく本質的ではないという感覚が広がっている。
1)全員が、たとえ階級のもっとも周縁化された層に属していたとしても、安定した職や公的な承認から排除されているわけではない。現代には周縁化された層から権力の絶頂に昇りつめた人びとがいる。多くの女性CEOたち――そして一人の黒人アメリカ大統領――の存在によって、絶対に克服できないスティグマや出自などないと、だれもが感じるようになった。
2)だがまた、まさに不安定である【ルビ:プレカリティ】という特質によって、固定的な地位も解体されていく。いまではみずからのもつ資格や能力が、それが何であれ、みずからを本質的に規定していると考えるプロレタリアはほとんどいない。安定【ルビ:セキュリティ】のない世界では、正常であるという主張、確固としたアイデンティティをもちつづけているという主張をすることはできない。進歩をしているという実感もなく、生はつぎはぎされていく。あらゆるライフスタイルは商品化されていて、部分的に相互に交換することができる。広場には、こうした断片化されたプロレタリアたちのさまざまな容貌が現われていたのである。
次に何が起こるのだろうか?予告することはできない。われわれが知っているのは、すくなくとも現段階では、われわれは待機経路にいて、そこで闘っているということである。
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本稿はEndnotes #3の巻頭論文、"The Holding Pattern: The ongoing crisis and the class struggles of 2011-2013"の抄訳である。とくに訳出を省略した結論部では、今後の展望として三つのシナリオが示されている。なかでも最後に示される展望はかなり暗く、それはインドないし中国発の景気後退、あるいは量的緩和政策の失敗によって、グローバル経済の底が抜けるというものである。本文はこう閉じられる。「政府が危機をマネジメントできるという可能性そのものが失われたとき、政治家の腐敗を責めることはできなくなる。意味がないからだ。もちろん、だからといって急に革命が議題にあがるわけではない。……過剰人口がさらに増えることで、プロレタリアの分断はさらに深刻なものにもなりうる。さまざまな階級フラクションが対立しあい、憎しみあい、革命の成功よりも足の引っ張りあいを優先させる状況を、だれもが容易に想像できる」。
『Hapax vol.2』夜光社、2014年
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